MAKMAX 太陽工業株式会社

PERSON
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浅田 浩二
ASADA KOUJI
  • 国土事業本部営業部 部長
  • 1993年入社

何でも、何度でも、やる

やるしかないのなら、やり切る

頼まれれば、断れない。思い返すと、人生ではそういったシーンが多かったように思いますね。まずは、高校時代。所属していたサッカー部の顧問の先生が、急に「海外青年協力隊に行く」と言い、いなくなってしまいました。そして、主将を務めていた私に、プレイングマネージャーという白羽の矢が立ったのです。本当のところ、辞めようかと思っていたのですが、やってくれと頼まれればやるしかない。ばらけてしまった雰囲気を戻すことからはじめ、練習や試合の段取りもすべて引き受けました。はじめこそ、“仕切る”という役割に孤独を感じましたが、頑張れば人はついてくるんですね。徐々に協力してくれる人が増えていったのは嬉しかったです。

死ぬほど辛い部活を、結局卒業まで

次は、大学時代ですね。大学生と言えば、友だちと遊んだり、麻雀をしたり、大学中にしかできないようなことをやろうと思っていました。でも、たまたまバイト先に同じ大学の先輩がいたのですが、その人が、潜水部をつくると。だから、入部してくれと。要はスキューバダイビングをする部活です。ちょっと、楽しそうじゃないですか。しかし、入部をしてみると、「発泡スチロールを抱えて潜れ」だとか、水中で呼吸するための「レギュレータを取れ」だとか、一歩間違えれば死んでしまいかねない、地獄のような部活でした。結局、卒業まで所属していたのですが、その理由も主将に選ばれてしまったからです。

期待されているのならなおさら

そして、太陽工業に入社してからは、広島支店へ。当時、広島支店は過去最高利益を達成するなど調子がよかったのですが、東京支店は羽田空港などの大型案件が終わるなどして、大分落ち込んでいたんですよね。そこで、「東京に行ってくれ」と。そう、ミッションは“立て直し”です。当時、私は広島支店で土木の部署に所属しており、陸上関係の仕事で成績を上げていたものですから、それを東京でもやってほしいということでした。そう言われたら、やるしかありません。大変でしたよ、本当に。

自分でつくり直せるということは

東京支店では、人が辞めている状態でしたから、まずやらなければいけないのは、お客様先への担当変更の挨拶でした。しかしながら、名刺を差し出しても「どうせ、またすぐ担当変わるんでしょ」と、あきらかにお客様は当社から離れてしまっている状態。でも、発想を変えれば、いちから新しくつくりあげることができるということです。そう考えるとモチベーションも上がりますよね。そして、立て直しに奔走し、5年ほど経った頃に課長試験に受かったことがきっかけで、今度は大阪へ異動することになりました。その頃、大阪では関西空港の案件が終わり、ちょっと落ち込んでいたんですね。そう、東京に異動した時と同じ状態です。なんだか、「再生請負人」のようですよね。

社会に必要とされるもの

大阪に異動になってから特に印象深い仕事は、新製品の開発です。大阪って、割とのどかな風景が広がっているところが多いのですが、そういう場所の電線って危険なんですね。何がというと、電柱に植物の「蔓」が巻き上り、それが高圧線に触れることで停電を起こしてしまうんです。電力会社さんの依頼で、その蔓が巻き上がれないようにする製品を開発しました。社会貢献にもなりますし、面白かったですね。2年間ほど開発をして、製品化し、社長賞までもらえた仕事になりました。

とにかく向き合うことで見えてくる

当社の特徴として、昔からよく言われていたのが、“縛り”が少ないということ。入社後、早い段階から裁量を持たせているので、入社3年目の若手が大型案件を決めてくるなんてことも珍しくありません。だからなのか「太陽工業の若手はしっかりしてるなぁ」なんて言っていただけることも多いですよ。もちろん、若いうちから大きな案件を任せられるのは、怖いでしょう。逃げ出したくもなります。でも、一千万円の仕事でも、一億円の仕事でも、やることは大して変わらないんです。やって、何ともならないことなんて、ほとんどありません。白羽の矢が立ったならやってみる。それが、成長の近道だと思います。