MAKMAX 太陽工業株式会社

PERSON
04
田中 雅義
TANAKA MASAYOSHI
  • エンジニアリング本部 本部長
  • 1993年 入社

夢と一緒に歩き続けていく

こころの内の好奇心が顔を出す

子どもの頃は、京都の山奥で育ちました。恥ずかしがり屋でもあったので、「できるだけ、目立ちたくない」という思いで、おとなしめに過ごしていたと思います。でも、好奇心は人一倍。割とめちゃくちゃなことをやって、ケガばかりしていました。開発途中の土地がどうなっているのかどうしても気になって、侵入してU字溝に頭から落ちて頭を縫ったことは、今ではいい思い出…なんですかね(笑)。また、「竹馬をつくる」って息巻いて、竹やナタを振り回したり。興味を持つと向こう見ずなところが、顔を出してしまうんですね。まぁ、コレをやると決めたらやるという、頑固さもあったのだと思います。

より興味が強いことを楽しむ

中学を卒業してからは、地元を離れて、全寮制の高等専門学校へ入学しました。専攻は機械工学。主に機械設計を学んでいました。強く望んで入学したわけではなかったのですが、もともと、理数系の教科が好きでしたし、ものづくりにも興味があったので、だんだんと面白くなってきましたよね。実習で旋盤やフライス盤を使ったり、溶接や鋳造をしたり、楽しく学べていたと思います。とは言っても、制服もなく、バイクや車の免許を自由に取れる学校だったので、友だちと遊んでばかりいました。バイトして、バイクや車を買って、夜中まで走り回ったりね。

地元で世界に一つだけの機械をつくる

そんな楽しい学生時代でしたが、時間の経過だけは止めることができません。そう、就職です。どこに就職しようかと考えていた時、何人かの知人から、地元にある太陽工業の工場のことを教えてもらいました。家から近かったですし、「東京ドーム」をつくっているなんて話もありましたから、1回話を聞きに行ってみようと。そこで、自社設備の開発もやっていると聞いたんですね。しかも、1品1台の機械。要は東京ドームをつくるためだけの機械をつくるということです。「世界に一つだけの機械を自分で設計してつくる」。そんな夢が思い描けたことで、入社を決めました。

四苦八苦しながら、2年目で叶えた夢

入社後は、てっきりその地元工場で働けると思っていたのですが、配属されたのは大阪本社。「生産技術課」という、各工場の生産設備の開発をやっていた部門でした。そして、入社2年目で瑞穂工場のテントをつくるライン設備の更新を任されたんです。もちろん先輩に助けてもらいながら進めていったのですが、そんなにうまくいくはずがありません。予定日になっても装置が動かなかったんです。どうにか使い物になるまでには調整できたのですが、日中生産が終わった後、夜通し調整を続ける日々が続きました。結果としては、無事につくりあげられたのですが、当時の課長には、「時間がお金だ」ということを叩き込まれました。ラインが動かなければ、その時間は生産ができないんですから。でも、若手でこの経験ができたのは、よかったと思います。「世界に一つだけの機械を自分で設計してつくる」という夢も叶いましたしね。

できることを探せば、道は拓ける

生産技術課で経験を積んだ後は東京へ。「製品開発」に携わりました。当時、開発した製品を販売する「社内ベンチャー制度」ができた時で、新たなチャレンジとして、シースルー太陽電池を開発していたんです。設計もやりますし、施工のサポートもやりますし、営業のサポートもやる。営業のように人と関わるのはあまり得意ではありませんでしたが、好奇心だけはあったので楽しかったですね。ここで、何でもできるようになった気がします。与えられた仕事ではありましたが、その中で自分ができることを探すということに対しては、一生懸命に取り組んできたつもりです。そうした方が、夢を持てますから。

ゼネラリストとして、100億円規模にも

東京で製品開発を経験した後は、枚方工場へ異動。今の社長が生産リーダーをやっていたプロジェクトに参加しました。100億を超える受注に成功し、1億5,000万円の設備投資を任されたんですね。失敗すれば会社が潰れる。そんなプレッシャーも乗り越え、かなりの利益を出すことに成功しました。そして、その後は経営企画室に異動して組織開発に携わり、枚方兼瑞穂工場長を経験し、生産企画部を経て現在は施工管理部門を担当しています。どの仕事も未経験からはじめていますし、なんだか、社内で転職を繰り返しているような気分です(笑)。ですが、これが太陽工業のいいところだと思うのです。様々な経験ができる上、そのどれもが、濃いやりがいにあふれている。いつまでも、新しい夢を追うことができる環境だと思いますよ。